墓誌とは

墓誌とは日本でいえば墓石になります。唐の時代には墓碑として墓の上に40cm~80cm四方の石板を置き、そこに故人の経歴が書かれたのです。墓誌は同じ大きさの蓋が置かれており、そこには故人の名前などが書かれていたようです。

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井真成の墓誌

井真成の墓誌は中国・西安の郊外(郭家灘(かっかたん)付近と推定)の工事現場から発見されました。それが同地の西北大学に持ち込まれ、調査の結果、日本人遣唐使の墓誌であることが判明し発表されました。西北大学により発表されたのは2004年ですが、実際にどの工事現場でいつ、発見されたのかは不明です。

墓誌は蓋と本文の2つの石からなっており、本文には工事の時についたのか、傷があるために読めない文字があります。

蓋(レプリカ)
井真成の墓誌蓋

蓋の拓本
井真成の墓誌蓋の拓本

本文(レプリカ)
井真成の墓誌本文

本文の拓本
井真成の墓誌本文の拓本


本文の大きさは縦40.3cm×横39.2cm×厚さ10.5cmです。これは中国の墓誌としては小型の部類です。表面にマス目の罫線を引き、楷書体で171文字が刻まれています。左側の三分の一は空白が残されています。
蓋は縦37.9cm×横37.3cmの大きさで、篆書体で墓誌の標題12文字が刻まれています。

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井真成の墓誌の公開

墓誌は2005年5月に愛知万博の中国館で一般公開されました。その後、東京と奈良の国立博物館で公開され、井真成の出生地(の可能性が高い)大阪府藤井寺市に里帰りし、公開されました。
墓誌里帰り時には、藤井寺市内に「おかえりなさい」と書かれた看板が多く立てられました。
井真成のおかえり看板

現在、墓誌の現物は中国・西安の西北大学で保管されています。
井真成の出生地(の可能性が高い)大阪府藤井寺市のアイセルシュラホールには各種説明パネルと一緒にレプリカが常時展示されています。
井真成のレプリカ展示パネル

井真成のレプリカ展示

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井真成の墓誌本文の原文

井真成の墓誌本文に記載されている原文です。
1行に16字づつ12行にわたって書かれています。発見時につけられたと思われる傷のため、各行の1文字目がの大部分が欠落しています。

贈尚衣奉御井公墓誌文并序

公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六   皇上
■傷追崇有典 詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕

※横書きにしていますが、実物は縦書きです
※■は読めない文字です。

井真成の墓誌本文の拓本

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井真成の墓誌本文の日本語訳

井真成の墓誌本文の日本語訳です。

【日本語訳】
尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 <序と并せる>

公は姓は井、通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。

中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬとは。

開元二十二年(七三四)正月■日に官舎で亡くなった。年齢は三十六歳だった。
皇帝(玄宗)はこれを傷み、しきたりに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。

その年二月四日に万年県の河の東の原に葬った。礼に基づいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。
真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、荒れはてた郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
その言葉にいうには、「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

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井真成の墓誌蓋の原文と日本語訳

井真成の墓誌蓋の原文と日本語訳です。
1行に3文字づつ4行にわたって書かれています。

贈尚衣
奉御井
府君墓
誌之銘

※横書きにしていますが、実物は縦書きです

【日本語訳】
尚衣奉御を贈られた井府君の墓誌の銘

井真成の墓誌蓋の拓本

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井真成の墓誌の貴重な所

【遣唐使の墓誌が中国で発見されたのは初めてなこと】
遣唐使は日本に先進国であった唐の制度や文化を学ぶために行われ、古代日本に多大な功績を残しています。遣唐使のなかで、その名を残した人はきわめて少なく、井真成のほかにも無名の日本人留学生や留学僧が数多く、身の危険をおかしてまでも中国へ学びに出かけたのです。
そのような遣唐使ゆかりの墓誌が中国で初めて発見されたことは画期的なことなのです。


【「国号日本」という国号が記された最古級の資料であること】
墓誌本文の2行目に「国号日本」と明記されています。西暦734年に作成された墓誌に記載されている訳です。

日本という国号は西暦701年に完成した「大宝律令」で法的に確立しました。
それまでは倭国であったのが、西暦734年には中国で「日本」という国号が認知されていたと思われます。
また、聖徳太子が西暦607年に第1回遣隋使で小野妹子を中国に派遣し「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや。」という文書を、当時の皇帝に送ってから127年経って、ようやく「日本」という国号が認知されていたと考えることもできます。

井真成の墓誌本文拓本

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