遣唐使とは

当時の唐は東アジアでもっとも大きな勢力を持ち、最も進んだ国でした。その唐の制度や文化を学ぶために行われたのが遣唐使だったのです。
回数は12回~20回まで諸説あります。ほぼ15年~20年に1度の割合で行われていました。西暦630年に始まり、西暦894年に廃止になりました。

船は全長30m、幅9mもある当時としては大型のものでした。骨組みを持たない箱型構造で簡単な帆を用いていました。横波に弱く無事に航海できる可能性は低いもので、まさに命懸けの船旅でした。

一度の派遣は4隻で行われ、1隻に100人程度が乗船していました。
遣唐使として唐を訪れた著名な人物としては「空海」「阿倍仲麻呂」がいます。
なかでも、阿倍仲麻呂は井真成と同じ遣唐使で唐に渡った同期です。

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遣唐使の航路

初期の遣唐使は朝鮮半島の西岸沿いを北上する北路をとっていました。
しかし新羅との関係が悪化した8世紀からは東シナ海を横断する南路が取られるようになったようです。船は五島列島で良風を待ち、一気に長江河口を目指しました。このルートは朝鮮半島を北上する北路に比べ、外海を突っ切ることから遭難する事が多かったようです。
復路は風向きから奄美などの南西諸島を目指す「南島路」をとることが多かったのですが、南路よりさらに危険なルートでした。

遣唐使の航路図

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井真成が参加した遣唐使

井真成は西暦717年の第9回遣唐使に参加しました。(回数には諸説あるので注意)
この遣唐使には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉などが参加しています。

井真成が乗った遣唐使船は鹿児島より奄美を経由して東シナ海を横断する南島路が取られました。

井真成が参加した8世紀前半の遣唐使の目的は文化交流といえるもので、当時、唐の文化は最盛期を迎えており、この唐文化を日本に持ち帰ることが最大の目的であったと思われます。
8世紀後半になると遣唐使は、唐に滞留している留学生や僧を、日本に連れ帰る事が目的になっていきます。その頃には唐の勢力も衰えを見せていたのです。

翌年の西暦718年に帰国しましたが、井真成は唐に残り、勉学に勤しむことになります。そして第10回遣唐使が派遣されたのが西暦733年、その帰国が西暦734年です。もしかすると井真成はこの西暦734年に帰国の船で日本に帰る直前に、不運にも亡くなったのかもしれません。

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遣唐使と菅原道真

西暦894年に、60年ぶりに遣唐使の派遣が決まりました。その時に大使に選ばれたのが菅原道真です。菅原道真は唐の国力の低下・渡航の危険性を理由に、遣唐使制度の廃止を建議しました。

朝廷も財政の逼迫という状況があり、遣唐使の廃止が決定され、200年の歴史に幕を下ろしました。廃止の決定から13年後の西暦907年に唐は滅亡しました。


菅原道真の建議書
菅原道真の建議書

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遣唐使が持ち帰った品

唐からの帰途についた遣唐使船には、たくさんの品物が積まれていました。大量の書物や仏教経典はその筆頭でした。唐王朝から譲り受けた美術品は貴族が待ち焦がれたものでしたが、史料が無いため具体的にどのような美術工芸品が持ち帰られたのかは分かっていません。

正倉院や法隆寺の宝物には唐時代の輸入品が含まれており、遣唐使が持ち帰られたものを推測させてくれます。唐の美術工芸品はシルクロードを通じて西方や南方の文化要素が巧みに取り込まれており、金銀宝石をふんだんに使い、色鮮やかで斬新なデザインが特徴です

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